家いくら?|住まい・暮らしのコラム

vol.3不動産

オリンピックでふたたび飛躍する湾岸エリア 第2回

「晴海」「勝どき」「月島」「築地」編

湾岸エリアの紹介の2回目です。
今回は魚市場で知られる築地やもんじゃ焼きで有名な月島など、中央区のエリアをご紹介します。

選手村跡地は人口1.8万人の新しい街となる「晴海」

選手村跡地は人口1.8万人の新しい街となる「晴海」

晴海は東京オリンピックと関係が深い街です。1940年に東京で開催されるはずだった幻の東京オリンピックのメイン会場は晴海でした。それから80年、2020年のオリンピックでは選手村が設置されます。

その晴海は2000年以前、倉庫以外では、ホテルや自動車学校、公団団地がある程度の密度の低い街でした。その団地の再開発で2001年に誕生した『晴海トリトンスクエア』はオフィス・商業・住宅・文化施設の複合開発で、現在では晴海の中心となるランドマークです。商業施設については長い間苦戦していたようですが、2010年以降は地域の住民が増加したことで利用者数も伸びています。

オリンピックに合わせて、新橋から勝どき、晴海、有明を結ぶBRT(バス・ラピッド・トランジット=バス高速輸送機関)が建設され、交通アクセスも大幅に改善される予定です。

分譲マンションでは2015年から『ザ・パークハウス晴海タワーズ クロノレジデンス』『ザ・パークハウス晴海タワーズ ティアロレジデンス』『DEUX TOURS(ドゥ・トゥール)』『パークタワー晴海』と大規模なタワーマンションが続けて発売されています。今後の予定では、選手村として建設されている約5,650戸の住宅も、オリンピック終了後は分譲マンションとして発売されることになります。人口にして1.8万人も増えるのですから、街の様子も大きく変わるので、注目が必要です。

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ザ・パークハウス晴海タワーズ クロノレジデンス
ザ・パークハウス晴海タワーズ ティアロレジデンス
DEUX TOURS(ドゥ・トゥール)

オリンピック後も大規模再開発が続く「勝どき」・「豊海」

オリンピック後も大規模再開発が続く「勝どき」・「豊海」

銀座からオリンピック会場へ向かう晴海通り。隅田川にかかるのが勝ち鬨橋です。そう、「勝どき」の町名はこの橋が由来です。さらに言えば、橋がかかる前にあった渡し船を日露戦争の旅順攻防戦勝記念で「勝鬨の渡し」と命名したことまで遡ります。

橋はあっても駅から離れているバス便エリアだった勝どきが大きく変わるのは2000年大江戸線の開通です。駅前には再開発ビルも建ち、イメージが一新しました。隣接する月島第二児童公園では毎月第2土曜日翌日曜日に『太陽のマルシェ』という都市型の市場が開催されています。

これまで勝どきで供給された大規模マンションは 『THE TOKYO TOWERS(ザトウキョータワーズ)』、『勝どきビュータワー』『KACHIDOKI THE TOWER(勝どき ザ・タワー)』などです。さらに勝どき東地区の再開発が決定しており、勝どき駅から5分ほどの運河沿いに地上58階、地上45階、地上29階の3棟で分譲と賃貸合わせて3,120戸ほどのマンションが2027年までに順次建設される予定です。また、選手村と運河をはさみ隣接する豊海地区でも再開発によって、地上56階総戸数2,150戸のツインタワーのマンションが2025年までに建設されます。

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THE TOKYO TOWERS(ザトウキョータワーズ)
勝どきビュータワー
KACHIDOKI THE TOWER(勝どき ザ・タワー)

ウォーターフロントブームに端緒となった「佃」・「月島」

ウォーターフロントブームに端緒となった「佃」・「月島」

徳川家康が江戸に移った時に、大阪淀川にある佃島から漁師を連れてきたため、この隅田川の河口にあった小さな島は「佃島」という名前になりました。江戸・東京の最初のウオーターフロントと言える街です。当時の海岸線は現在も堀として残っており、その中に商店や住宅が立ち並び、独特の風情があります。アニメや映画にもなった人気マンガ『3月のライオン』の舞台になっており、街の様子も描かれています。

その佃島の隣にある石川島には江戸時代に人足寄場が置かれ、明治以降は石川島造船所(現:IHI)となります。1980年代の後半に造船所は廃止され、『リバーシティ21』として開発されます。ちょうどバブル景気と重なったため、「湾岸エリアにお金持ちが住む」という新しいイメージが生まれました。

佃住所内で2000年以降は『センチュリーパークタワー』『ライオンズタワー月島』『ファミール月島グランスイートタワー』『ザ・クレストタワー』といったタワーマンションが供給されています。

月島は佃に隣接した隅田川河口に広がる砂洲を明治中期、1880年代から埋め立することでつくられた街です。昭和の初期1930年頃までには現在の月島1丁目から4丁目の範囲は完成します。都心から近いエリアにもかかわらず戦前から戦後は工場や倉庫が多いエリアでした。転機はやはりバブルの頃です。1988年の有楽町線の延伸、その後2000年大江戸線の全線開通によって交通アクセスがよくなると、倉庫跡地はタワーマンションとして開発されるようになります。下町のおやつ「もんじゃ」が月島の名物として商店街にお店が増えたのもこの時期でしょうか。

月島で分譲されたタワーマンションは『アイマークタワー』『キャピタルゲートプレイス』の2つです。現在は主に中小規模のマンションの供給が行われていますが、2017年は月島一丁目西仲通り地区で地上32階約490戸の分譲タワーマンションと商業施設が建設されます。月島3丁目にも地上58階約1000戸の開発計画、さらに地上50階約750戸の計画もあります。この月島3丁目の2計画ともまだ準備段階で2017年度の都市計画決定を目指していますので、実際の建設や分譲はその後になります。

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センチュリーパークタワー
ファミール月島グランスイートタワー
アイマークタワー
キャピタルゲートプレイス

外国人居留区跡で上品な街並みの「明石町」
バブルから30年を経て蘇る「湊」

外国人居留区跡で上品な街並みの「明石町」バブルから30年を経て蘇る「湊」

明治時代に外国人居留地区として始まった明石町。街を散策すると「慶應義塾発祥の地」「電信創業記念碑」「東京税関発祥の地」などの記念碑が多数見つかります。学校の発祥は慶応だけでなく、立教や明治学院、女子学院など他にも多数あります。文明開化の時代、この地が外国と繋がった最先端であったことが伺えます。1917年には健康社築地病院の跡地を利用して聖路加国際病院が設立されます。(ちなみに聖路加は「せいろか」と呼ばれることが多いですが、正しくは「せいるか」と読みます)聖路加病院の周りは居留地の頃の名残で、道幅が広い並木道となっており、この一画は中央区の他の街とは少し異なる上品な雰囲気を持っています。

明石町の北側が湊です。町名の通り、江戸時代は東京湾から入る商船を係留する港だったようです。2010年代に入り、地域住民と大手デベロッパーが協力することで土地の整理が進み、開発が出来るようになりました。最近では『パークシティ中央湊ザ・タワー』『シティタワー銀座東』が分譲されています。

市場移転問題に揺れる築地

市場移転問題に揺れる築地

中央卸売市場の移転問題で注目されている築地です。江戸時代は武家屋敷と寺町でしたが、幕末以降は隅田川に面する場所に海軍関係の施設が置かれます。海軍兵学校も広島県の江田島に移転するまでここにありました。その跡地は関東大震災で焼失した日本橋の魚市場の移転場所となり、1935年に現在の築地市場が完成しました。それ以降は築地=魚河岸というイメージが形成され、世界的にも知られる街になります。

銀座の隣ということもあり松竹や朝日新聞といったメディア関係やニチレイのような市場と関わりがある企業がオフィスを置いています。他の湾岸エリアの街と比べると築地は古くから市街地化が進んでいます。そのため供給される分譲マンションは中小規模がほとんどで、大規模なタワーマンションの分譲はこれまでありませんでした。まとまった土地があってもオフィスビルになることが多かったのです。

一時延期されていた豊洲への市場移転も決定し、築地の跡地に関して都は「5年後を目途に再開発する」「環状2号線を開通させ、五輪用の輸送拠点として活用する」「その後、『食のテーマパーク』機能を有する東京を牽引する一大拠点とする」という基本方針を示しています。その中で都は、土地は売却せずに土地を保有したままで民間が開発する方向性を表明しています。『食のテーマパーク』以外の用途については今後の計画策定となるのでしょう。オフィスや商業施設だけでなく、住宅に関しても賃貸や定期借地権による分譲も考えられ、今後も大規模なマンションが供給されることも期待されます。

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